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Oct 122003

REALITY AD

個人的にここ3,4年のCMの登場人物が一般人もしくは一般人を模したタイプの人物の体験に基づいたタイプのものが増えたように感じていて、それは何に基づいてそういう傾向になっているのだろうか?と思っていた。
これは先日からの信蔵さんの塾やカンファレンスで語られていたブランティングコミュニケーションの一つの手法の話で究めてミクロな話になるのだけど、企業と消費者の距離感の取り扱いってのは結構デザインの中で重要な部分じゃないかな?と思って色々調べていたのだけど、その辺の情報が掲載されている雑誌を読んで「はぁなるほど」という感じ。

現在アメリカでは”リアリティ・テレビ”が”ソープオペラ”に取って代わろうとしているらしい。”リアリティ・テレビ”というのは日本のMTVとかでもやってる”オジーオズボーン一家”が走りらしいのだけど(往年のオジーを知っている身としてはかなり痛いですが・・・)、これは9/11やイラク戦争などのテレビ報道の影響があると分析されているらしい(つまりここ1年ぐらいの話みたい)

アメリカのテレビ評論家デール・リールは「どのチャンネルをひねっても、現実そのものの映像が視聴者の目を襲う。アメリカ人は、リアリティ番組の切迫感、身近さ、そして面白さを嫌というほど味わうチャンスを持ったのだ」と述べ、「ハリウッドの作る甘ったるいドラマやコメディはいかにも偽物臭く、色褪せて見える」ということらしい。

またこの傾向は同時に「体制への不信感」という要因もあるらしい。
この辺はジェネレーションX、Yの世代に傾向が強く、結局その世代が信じれるのは自分と同じ環境にある他人ということになるらしい。そしてこの世代は18歳から35歳と消費の中心層の世代にあたる。

この結果アップル、GAP、IBM、アメリカンエクスプレス等が「リアリティ・アド」という展開をはじめたという説明になっている。そしてその目的は3つ
1)18歳から35歳に訴求
2)信憑性、真実味を訴求
3)広告制作費のコスト削減
ということらしい。

またブランディングと同時にマーケティング手法の一つの「ゲリラ・マーケティング」に「リアリティ・アド」を付加した試みもアメリカでは始まっているらしい。

個人的にはモット前からこの傾向があったと思っていたのだけど、この本によるとここ1年ぐらいの話なんだそうだ。
ただ「リアリティ・アド」が浸透すれば浸透するほどそれの「リアリティ感」は喪失されていくのだろう。アンチテーゼとして存在しうるからこそそれはブランディングコミュニケーションの手法としてインパクトを産むのであって、リアルがメインストリームになってしまうと、その反動で逆に降れた手法がインパクトを与えるようになっていくだろう。

個人的にはリアルが訴求力が高いといわれるのは、インターネットを代表とする情報インフラの充実がコンシューマーを賢くし、結果今まで企業が発信していた情報が如何に偽善に満ちたものなのか?を気づかせてしまった結果なのだろうと思う。
マイケル・ムーアの「ボウリング フォー コロンバイン」の中の言葉「アメリカ人は誰も信用していない、だから家に鍵をかけ自分を閉じ込めるのだ」のように、結局権利で守られた自由をと無制限な情報を与えられすぎたために、誰も信用できなくなりつつあるのではなかろうか?と思った。

企業は企業であることによる信頼性をあまりに前面におしだすと、逆にコンシューマーから信頼されない。そのために企業はバイラルを模すためにコンシューマーの皮を被りコンシューマーを内側から崩しにかかっている。しかしバイラルがバイラルとしてコンシューマーの信頼を得られる期間はそうは長くはないという気もしている。

こういった中で企業もコンシューマーに対しての姿勢を問われているのだろうし、デザイナーもそういったことをキチンと認識してブランディングコミュニケーションの手法を選択していく必要があるのだろう。当たり前のことだけど、マーケティングと同様にブランディングの手法もその時代時代によって変化していくものなのだ。

しかし「体制」を信じられなくなった先に「民衆」さえも信じられなくなってきた人間が増え、真実さえ真実として受け取られないような世の中になってきたときに、一体何が真実なのか?といわれると正直良く分からない。

セス・ゴードンの「バイラル・マーケティング」では、「アイディア・バイルスがブレイクするのは、一見偶然に見えるが、実は人為的にその可能性を飛躍的に高められる」と述べているが、一方でそれを人為的に操作することでそれ自体の信頼性をスポイルさせていく。

マス媒体に対して(これは体制にもあてはまるが)の疑問が生じた時に発生するといわれる「口コミの組織化」ということなのだろう。
バイラルは結果論であり、一般市民はバイラルのマーケティング利用を潜在的に拒絶するが、マーケッターはそれを使わざるを得ない。
そしてそれを利用、操作していることを如何に気づかれずに仕掛けていくか?にマーケッターは腐心していくわけだ。
この辺まで来ると、もう騙しあいのドロドロとして世界になってくる。

インフォシークの水島氏曰く
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 マーケターの悲しい性(サガ)を嘲笑うように、マルチプルなインタラクションを前提としたインターネット環境では「操作し得る」世界が、どんどん偶然性(計算不可能性)の力に覆われ、安住の地を失いつつあるようだ。いや、いままでも安住の地などなかったのに、ただ僕らは一方通行のマスメディアに慣らされて、それに気付かなかっただけなのかもしれない。
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とのことだが、個人的にはそれでも操作してしまえるのがデジタルの世界の恐ろしさだと思ったりするのだけれども・・・

10 Comments

『「リアリティ・アド」が浸透すれば浸透するほどそれの「リアリティ感」は喪失されて』きてます。すでに。で、そこからの展開でいまは「ファンタジー」。さらにリアルファンタジー。でもそれも飽きてしまったので揺り戻しが来てます。このへんはもう言葉では書ききれませんが、リアリティとされるものも日々刻々と変化するわけです。

リアリティ・アドの反対に位置するのがファンタジーだとすると、そっちの方向に行くのは間違いないと思うんですけど、sれでもインターネットが存在している状況の中では単純なファンタジーでは駄目なのだろうなと・・・

個人的にキーは「自分で体験」なんだろうと思っていますけど、それがバーチャルの中で提供される体験ってのは果たして人々の心に信じうるもの足りえるのだろうか?とか・・・

それかもう「現実とか関係ない!」と言い切れるほど圧倒的なファンタジーを提供するか・・・(アルマーニとかプラダとかはそういう域に行ってるんでしょうけど・・・)

バーチャルで操作されていることは重々承知だけど、それを真実として認識しても構わないと思わせるだけの何か?なのか・・・

なんかアホなんでまとまらないですw

バーチャルですか。うむむ。ゲーム上でバーチャルに体験する主都高バトルを思い出してください。どこまでがリアルで、どこからがバーチャルか。境目を考えるのではなく「うぉぉ」になってる脈絡です。それでリアルファンタジーな意味がわかると思いますが、それはもう今はoutなわけでし。

リアルを再現するファンタジーではなく、リアルをよりリアルたらしめるファンタジーとか・・・?
いかん、なんか言葉を弄んでいるだけになってしまいそうだ・・・。
手を動かさなくては・・・・

なんかそういった現代の、特にインターネット接続環境が普及して以降の、情報の送り手と情報の受け手との混沌とした関係の縮図が2chに表れているような気がしてしまいます。

匿名の誰かの発言を信じるか信じないのか、常に疑心暗鬼で話半分に聞いておく。何かを信じるにしてもそれが嘘であった場合のリスクも含めて信じるしかない、という状況。まさに「自由と無制限な情報を与えられすぎたために、誰も信用できなくな」っているように見えます。

というか実際自分がそうで、「結局その世代が信じれるのは自分と同じ環境にある他人」というのはめちゃめちゃ思い当たる節があります。企業側が出す情報にはバイアスがかかっているのではないかと思ってしまうし、雑誌に記事が出ててもそれを100%信用することはしない。買い物するときにネットで調べるときも、なるべくその企業とは関係なさそうなコミュニティで人の声を聞く。そんな行動に出てしまいます。

だから先日の信蔵塾でも話に出たタイアップ広告という、企業が金を払って作る雑誌の記事っぽい広告、なんてのは胡散臭さの極み、みたいに見えてしまいます。

しかしそういう僕の感情も社会的な背景に起因する世代的な特徴なのだとしたら、ものすごく高いところから俯瞰できる視点を持たないと到底効果的なブランドコミュニケーションというのは作れないなあ、と思ってしまいました。ターンテーブルが2台ずつ売れるのを不思議がる技術者の話を笑えないです。

「バイラルがバイラルとしてコンシューマーの信頼を得られる期間」ってものすごく一瞬のような気がするんです。で、「企業はバイラルを模すためにコンシューマーの皮を被りコンシューマーを内側から崩しにかかってい」たことがコンシューマーにばれた場合、ブランドイメージというのは負の方向に大きく傾いたりしないのでしょうか?僕はいつもこの負ののエフェクトというのがいつもすごく気にかかります。

例えば昔は良しとされてきた、これでもかとポップアップウィンドウを出しまくってユーザーにアピールする手法。今ではほぼ淘汰されたこの手法では、ポップアップウィンドウの中にどんなにすばらしい世界を作ってメッセージを伝えようとしても、「ポップアップUzeeee!」という感情とブランドが結びついてしまわないのか、ということです。

誰に聞いたのかは忘れましたが、うっとうしいCMをテレビで垂れ流すのはブランドイメージの悪化にならないのか、という問いに対して、それはわざとやっていて、認知度を高めるためには非常に有効であり、それによって持たれる負のイメージよりも認知度が上がることのほうが経済的に見て効果的なのだ。という回答を得た記憶があります。そのときは釈然としないまま「そういうもんなのかなあ」と思っていたのですが。

しかしやはり今考えると違うのではないかと思います。たとえネガティブなイメージを繰り返して認知度を高めていってもそれはいつか飽和します。しかしネガティブなブランドイメージはどんどん蓄積します。短期間であれば上に書いたような理論も成立するかもしれませんが、続けていけばポジティブな効果をネガティブな効果が上回るのではないでしょうか。続けなければいいじゃないか、といわれてしまうでしょうが、やはり健康なやり方だとは思えません。

まあそう考えていくと「嘘をつかない真っ当なコミュニケーション」という方法しか残らないと思いますが、これまた先日の信蔵塾でのお話にあったように「ベンツの窓枠」とか「ミキモトの真珠の選別」とかポジティブなブランド知識を形成していく形のアプローチは非常に有効に働くのでは、と思います。またWebというメディアの性質と親和性が高いとも思います。


なんかちゃんと勉強したこともないのにあやふやな知識のまま長文2連発を書いてしまいましたが、この際恥をかなぐり捨てて疑問に思ってたことを訊いてしまおう、と思った次第です。勘違いばかりでお目汚しになってしまったらすいません。

ながっ(笑)!でもイイ感じで理解がすすんでいるようでうれしいです。塾スレ立てますかねぇ。というかBranding Discussionへもどうぞ。

>お目汚しになってしまったらすいません。
いや、面白かったです。ご遠慮なくー。

>うっとうしいCMをテレビで垂れ流すのはブランドイメージの悪化にならないのか?
まだ漠然としか頭にないのですけど「嘘をついても笑って許される人」と「嘘をつくとその人の価値が下がってしまう人」の2種類があって、逆に「嘘」の種類も2種類あるなぁと。

この辺はお笑いの手法にも似ているのだと思うんですけど、「如何に相手を気持ちよくさせるか?」「如何に相手に優越感を抱かせるか?」そして如何に相手に「もーしょうがないなあ・・コイツめぇ」と思わせるか?
正しいことが常に人の共感を生むのか?と言われると、それと好感度ってのはまったく別のところにあったりして、その辺はまだ自分もうまく消化できてないです。

>短期間であれば上に書いたような理論も成立するかもしれませんが
その通りだと思います。この辺は微妙なさじ加減なんでしょうけど、商品のバリューと、信頼性という要素の他に「如何に愛らしい、いとおしいと思わせるか?」という要素もあるんじゃないかなあ・・・と。

そういう手法がブランド価値を上げて、商品の値下げ等のジリ貧状態から企業を守るのか?といわれると正直分からないのですが、なんにしても人の心を手のひらで操作できるぐらいのしたたかさがブランディング戦略には必要なんでしょうね・・・。

それが本能的に無邪気にできるのなら幸せですけど、分析分析して突き詰めたとき、その人は逆にすべてを信じられなくなってしまうんじゃないだろうか?とか訳分からない心配とかしてみたり・・・w

うーん、まとまりがないw

良くも悪くも、忘れてくれるギリギリあたりでのコミュニケーションってあるんですよね。

そですね、最初に
>企業と消費者の距離感の取り扱いって
と書いたのですが、距離感と立ち位置なんだろうなと思ってきました。

企業が利益を目的とする組織である以上、隣人にはなり得ない、そのなかで如何に利益という目的を隠し、コンシューマーに幸せを提供するというスタンスを提示できるか?

個人的には古い人間だからか「滅私奉公」的な考え方なんですけど、企業は利益を確保しないと存続できない組織だからそうも言ってられないし・・・。
「お客さんの幸せの為に良い商品を売って、結果それが利益になる」ってスタンスで純粋に物が売れる世の中であって欲しいと心の中で思ってしまいますが、現実はそんなに甘くないですね。

少し切なくなってきた・・・w

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