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Oct 232003

幼児虐待

26歳の女性と付き合っていた高校生が、その女性の子供を虐待死させるという痛ましい事件がありましたが、この事件かなりショックです。その虐待をした高校生に関して云々というよりも、自分も含めてそういうことをできる生物なのだろうか?と・・・

なんだろう、高校生ってそういうことができるもんなんでしょうか?
人間はそういうことがもともとできる生物なのだろうか?
自分も同じ環境にあったらそういうことをしてしまうのだろうか?

なんだかよくわからないですけど、ものすごく自己不信になってしまってブルーです。
サンタプロジェクトでは虐待を受けた児童たちへの募金を行っていますが、このプロジェクトに携わるようになって3年、こういう事件について色々考えるようになって、同時にどんどん自分も含めた人間って生き物が信じられなくなっているというか・・・・。

5 Comments

親が子を愛すること。子供の頃はウザいだけなんだけど、徐々に愛されていたんだ、とわかる。そんな感情の欠落が人間性を失わすんだと思います。いや人間性というか、そもそもそういうことは動物の本質なんです。でも、人間は自分の欲望を埋めることにプライオリティを置ける能力まで備えてしまっている。そして母親・父親が、個々の欲望に意識が向いてしまったとき、こういう悲劇が起こるのでしょう。でも、愛することって、ぎゅっと抱きしめてあげること。しっかりと手を握ってあげること。みたいな、そういうことなんですけどね。

そですよね・・・すごく単純な本能だとおもうんですけど、「自分の欲望を埋めることにプライオリティを置ける能力」というものが人間の進化の産物だとすると人間ってどういう方向に進化してるんだろうか?と思ったり・・・・。
進化というものがその環境に適応したものだとすると、こういう事は実は人間が現在の環境で生きていくために必要なことなのだろうか?とか・・・
なんか人間の潜在的な本能というものが非常に恐ろしく思えます。

動物はモノを覚えるという「脳」の容量がないので、必要最低限しか「現在の環境」のことを記憶せず、ほとんどは本能のままに生きていきます。人間には「現在の環境」のことを記憶するだけでなく、それを思考する能力があるので、元々の本能を、感情で抑制できる「理性」というものを持ちます(いきなり雌を犯したりしないわけで)。

でも、その「理性」の形成には、本能そのものでもある「愛情」が絶対栄養として必要なわけです。「これはいいのよ、でもこれは人が傷つくから駄目でしょぉー」と、本能の出し方(理性の利かせ方)を覚えるわけですが、そこに、愛されながら、という本能同士のコミュニケーションがないと怖いだけなんですね。これはペットも同じですが、愛情を知らないと後々誰ともコミュニケーションできなくなるわけです。やっぱモノより思い出でっせ。

まちがえた。感情で抑制できる「理性」ではなくて、意思で抑制できる「理性」。ですた。ぼよよーん。

そですよね、お金と物だけでは駄目ですよね。
もちっと掘り下げるとそれに直結しない非効率なことってことを許さない風潮ってのも良くないかなぁと。
なんでも効率よく、的確にってのは、おおむね「物質」「コスト」「労力」とか目に見える、または換算視することができるところをベースに考えられることがほとんどで、そういう「こころ」の部分をおざなりにしているのではないか?と・・。
コスト的にはすごく「非効率」なことでも、ココロ的にはとっても大切なことがあるんじゃないかしら?と・・・。

見えないことだし、個人によって受け取り方が違うことなんだけど、これってみんな潜在的にはわかっているけどうまく言葉で説明できないからおざなりにしているのかなああ?と・・・。

まさに「モノより思い出」ですよね。
じゃあなんで「モノより思い出」なの?と理論的に説明を求められても逆に言葉にすること自体がナンセンスでそれを陳腐化させてしまうようで、うまく説明できないのですが・・・。

そういう感じる部分を大切にしたデザインができたらいいなああと・・ここ1年ぐらいモヤモヤとしています。

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