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Jan 312009

芸術は一種のいたずらだ、美術家はいたずら小僧だ。

肩の力がなんか取れました。

「大学でよく講演をやっていた当時、わたしはこういった。
「みなさん、芸術に手を染めなさい。どんなにまずくても、どんなにうまくても、それでみなさんの魂は成長します」と。
みんなが芸術をやるのはそのためだ。有名になりたいからでも、金持ちになりたいからでもない。自分の魂を成長させるためだ。

美術批評をいろいろ読んで不満を感じるのは、それがみんなから絵を描きたいという意欲を奪うことだ。ダンスの批評も、みんなから踊りたいという意欲を奪うことだ。
それじゃ、いけない。だれもが絵を描くべきだ。やってみると、なかなか気分のいいものだしね。だが、批評家にいわせると、斬新でないとだめ。まるで芸術にも進歩が必要だ、といわんばかり。

冗談じゃない、進歩をめざす必要はない。
芸術は一種のいたずらだ、美術家はいたずら小僧だ。
実際にはなにも起きてないが、彼らはみんなを感情的に反応させようとする。芸術をまなぶのは、自分のたましいを養なうためで、出世するとか、有面人になるとか、金持ちになるとかのためじゃない。あくまでも人生の過程だ。芸術は、食事や、セックスや、運動と同じで、成長に不可欠なものだ。それによって人間は自分が何者かを発見できる。

以前のわたしはよく聴衆に議論をふっかけたものだが、いまはもうそんな機会もない。もしそんな機会があれば、こういうだろう。「今夜、ひとつ詩を書きなさい。それをできるだけいいものにしていく。四行、六行、それとも八行。できるだけいいものに。ただし、その詩のことはだれにも話さない。誰にも見せない。やがて、そして、これ以上にならないと満足したら、原稿をビリビリ引き裂いて、ほうぼうのゴミ箱へばらばらに捨てれば、自分の努力の完全な報酬を受け取ったことがわかります」。

それが創造という行為であり、そこから大きな満足が得られるわけだ。」 

カート・ヴォネガット「すべて成し遂げた後の憂鬱」

ref:イルコモンズのふた。 : ▼やっぱり芸術に(C)はなくてもいいと思う(その理由)

アートってなんじゃぃ?(去年のChim↑Pomの件とか)ってウニャウニャ考えて深みにはまっていたのだけどちょっと肩の力を抜こうと思った。

ここ半年ぐらいで色々本などを読んで至りつつある結論は「アート」をややこしくしているのは制作者じゃない人間も「野球選手と野球ファン」「プロレスラーとプロレスファン」みたいな区分を意図的に曖昧にしてみんな「アート」の中で一緒に生活していることなんじゃないか?と・・。

「アートファン」
何故このような定義が無いのか?

これを考えると厭らしい考えしか思いつかないのだけど、まぁみんななにかしら「アート」の世界に属していることでメリットがあるのだろう。だからみんな「アート」の中で「アート」についてあれやこれやしている。外野からアートを批評、糾弾する人が居ないのだ。(居たとしてもアートの中にいるアート批評家がアート防護者となってそれに反撃するという感じか?)

「アートファン」と思しき人は享受している恩恵上(?)、本質的な批評、強いては決別というカードを「アート」に対して提示できないという状態で、でも対外野的には知的にばっさりいってるぜみたいな、何のスタンスかよく分からないスタンスをとっているから、何を煙に巻いているのか、巻けてないのか?な感じが外野から見ていてなんだこれ?なんか手品のネタが見えているけど、ここは見えてない振りをした方が良いのかな?みたいな感じがあるんじゃないかしら?と思う。

「アートはウンコとかわんねぇんだ!!」(違

ということで肩の力を抜いて絵でも描こう。
マイソンと一緒に絵を描いていると意味無く楽しいし・・・・。

でもまぁ考えることは辞めないけど・・。
あまり排他的にならないように・・・。

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